人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2012年 06月 01日
本と紙と、物語と_29(街場のメディア論より3)
本と紙と、物語と_29(街場のメディア論より3)_c0160283_11504362.gif第4講では「正義の暴走」ということが語られていました。例えば病院で医療事故があったとき、メディアは積極的に被害者(弱者)の側に立ちます。これ自体が間違っているわけではないし、事故の原因究明や検証のためにメディアは機能しなくてはならない。しかし、それは必ずしも弱者が絶対的に正しいことを意味するのではない、ということを置き去りにしたまま一般世論が形成されることが多くなっているということ。学校においても同様のことが起きている。やがて、それは定型化してしまう。医療事故は絶対的に病院側が悪者であり、被害者は半永久的に被害者である。かどうかは一つひとつを検証しなくてはわからないのに。やがて、メディア自身もそこから逸脱しなくなり、ますます世論や正義が固定化してしまっていると。そうなると病院側もそれを恐れるようになり、被害者側の態度が増長することもある。そんな悪いスパイラルが形成されてしまっている。これは一例に過ぎず、大体にしてこうやってメディアの定型文化が起こってしまっているという。
街場のメディア論 内田樹 | 光文社新書 | 光文社

つまるところ、メディアが凋落したのはこの予定調和が主要な原因の一つではないだろうかというのである。パターンが生まれ、それに準ずることで安定するのである。安定というのは楽な話ですよね。このお約束に従っておけば大体オーケーということですから。水戸黄門に固定ファンがいたのと同じこと。それをひっくり返すにはパワーもいるし、大体ひっくり返すことが望まれているかどうかもわからない。視聴者や読者においても、多分にわかいりやすさを求めている時代ですから。長々と話を聞かされて、結局どっちがイイモノでどっちがワルモノかわかりません、ていうのじゃあまり納得してくれないのです。ただでさえ情報過多な世の中において、曖昧なものや、難解なものはマジョリティから遠ざけられてしまいます。そういうスパイラルもまた、メディアと消費者の間に確実にある関係性だと、僕は今思ってます。

結果、ある程度のパターンの中で情報は流用され、使い回しによって価値が下がり、だんだんと人々がそこに注意を払わなくなってしまった、という風に内田さんは理論を展開しました。平易でわかりやすい情報というのは受け止めやすいですが、その分心に深く残りません。不特定多数を相手にすればするほど、角の立った意見よりも無難なほうを選び、最大公約数を求めすぎると大体なものは薄まってしまう。そんなものに価値があるはずがない。無料で得られる情報ならばそれでもいいかもしれないけど、少なくともお金を払う価値なんてなくなっちゃいますよね。人の受け売りしか話さない人なんてまったく面白くないのと同じです。本当に面白い情報というのは、誰か個人の主張が明確に込められたものなんだと思います。それを発信できる環境や、人材が、メディアから失われつつあるのかもしれません。今や個人が誰でも何でも発信できますが、その中で本当に面白い情報を発信できている人というのは本当に一握り。プロのメディアは、それらを圧倒的に凌駕しなくてはいけないんですよね、本当は。それができなくなってしまっているのが、現状なのでしょう。

僕個人もこのような拙い文章を日々つづっているわけですが、とにかく意識していることは「自分がどう思ったのか」という主観をなるべくこめることです。もちろん不特定多数が訪れる可能性のある場所ですから、客観的事実や公平性を保ちながら、読む人がいることを想定しながら書いているつもりです。まあできているかはともかくとして、面白い情報とは何なのか。それを真摯に考え続けることが、発信者としての責任だよな、と公私ともに改めて思い直した今日この頃なのでした。そして毎日更新をするというのは、自分という文脈を形成するためです。点の情報ではそれが意味するところがなんなのか伝えきれませんが、それを線にすることで伝わることが必ずあるはずですから。

通り一遍のお約束ではなく、自分が語るべきことはなんなのか、自分にしか言えないことは何なのか。これもまたできているかどうかは別として、僕が発信する意味は何かというのは、常日頃強く強く考え続けていることではあります。

by april_hoop | 2012-06-01 00:00 | 閑話


<< 本と紙と、物語と_30(街場の...      本と紙と、物語と_28(街場の... >>