2012年 05月 31日
本と紙と、物語と_28(街場のメディア論より2)
c0160283_11295386.gif今度はテレビと新聞を通じたメディアのお話。新聞はテレビを批判しないその構造は、お金で結びついてしまっているから。そんなことでは真のジャーナリズムが発揮されるはずもなく、メディアの質の低下につながっている、などなど。近年のメディアの凋落の原因は、ジャーナリストすなわち発信側の質の低下にあり、それがインターネットの出現により顕著になってしまった、というのが内田さんの主張。
街場のメディア論 内田樹 | 光文社新書 | 光文社

確かにかつてはメディアが発信するものはわりと盲目的に信じられていたわけで、しかし今はインターネットで誰でもその情報について調べることが可能になっている。しかも劇的なスピードで。そのときに、メディアから流れて来る情報にいったいどれほどの価値を見出せるのか、そういうことなんだと思う。テレビ離れ、新聞離れ、ついでに活字離れが叫ばれて久しいけれど、つまりはそれほど面白い=価値のある情報がなくなってしまったから、というのがいちばん正しいのかもしれないね。にもかかわらず、多くの人はメディアの言うことをけっこう鵜呑みにしている、というおかしなねじれが今の情報社会だと思います。

テレビでこう言っていたよ、新聞にこう書いてあったよ。そういう会話は日常茶飯事で、不思議なことに政治家の言うことは信用しない人が多いのに、なぜかそれを流しているテレビの言うことやコメンテーターのコメントは信じたりするんですよね。テレビにも新聞にも疎い僕なのですけれど、テレビや新聞は、意図的に「無垢を演じている」っていう内田さんの指摘は確かに言われてみればその通りかもしれません。やらせ番組があったときに、「そんなことをするなんて信じられない」というような論調。いやいや、あなたたちは知っていたはずだ。いずれそういうことが起きるだろう、今ももしかしたら行われているだろうことを。にもかかわらず、そんなことは考えもしなかった、という態度は、ジャーナリズムとしてあってはならないものであるということ。だいたい、知らなかったです、なんて態度を恥じなくてはいけないのが本質的なメディアの態度なはず。そんなメディアにいつの間にか同調してしまっている僕ら、という悪いスパイラルは確かにあるのではないでしょうか。

そして視聴者というか消費者全体にいえるクレイマー化。ただで情報を享受し、それに対する判断を自分では留保しておきながら文句だけを言う存在が、ネット社会を基地にしながらとても増えてしまっている。自分は悪くない、何もかもがメディアやその他のせい、というリテラシー放棄のような態度ってのはおかしなことですよね。これ、一般消費社会においても言えること。最低限のコストで最大級の価値を引き出そうとしている消費者の態度そのものかもしれません。相手への敬意や、自分自身への疑問を一切差し挟まずに、ローリスクでハイリターンを得ようといつのまにか思考が傾いています。これはメディアのそれと完全にリンクしているのかも。あたかも自分が被害者であるような立場に立つことで、正義と権利を主張するのはどこか歪んでますね。自分自身を顧みて、大いに反省させられることでした。「何も聞かされていない」「テレビは当てにならない」そんな台詞をはく前に、自分に問いかけるべきことがあったように思います。権利を主張できるほどの義務を自分は果たしているのか、と。

最近、敬意を払うこと、まっとうな対価を払うこと、というのはよく考えることです。誰も彼もが自分の正当性だけを主張して、なるべく多くのものを引き出そうとしていたら、いったいその取り分は誰のもとから出て行くというのでしょうか。フェアトレードとか、そういうことも発想としては同じような気がします。支払うべきものを、支払うべきところへ支払う。通貨にしても、敬意にしても、労働にしても。それを放棄したら社会は社会でいられなくなってしまいます。

と、脈絡なさすぎるうえに、本書を読まないとなにもさっぱり伝わらない駄文ですみません。
[PR]

by april_hoop | 2012-05-31 00:00 | 閑話 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://aprilhoop.exblog.jp/tb/18056835
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< 本と紙と、物語と_29(街場の...      本と紙と、物語と_27(街場の... >>